1885年の秋、ペンシルヴァニア州立精神薄弱児養護院を辞して、マサチューセッツ(Massachusetts)にあるアマースト大学(Amherst College)へ向かいます。この理由は先輩であった新島襄の勧めと紹介によるものです。新島は、1864年7月に密出国してアメリカに渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けてアマースト大学やアンドーヴァー神学校(Andover Theological Seminary) で学びます。そして、改革派教会(Reformed churches)(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」(American Board)の準宣教師となった人です。
内村がアマースト大学へ編入しようとした理由は、この大学が当時はキリスト教宣教師養成の一翼を担っていたからだと言われます。ウイリアム・クラークもこの大学で教鞭をとり、学生の中に同大学初の日本人留学生として同志社大学の創始者新島がいたのです。徹底した少人数教育のため卒業生数は少ないのですが、著名な卒業生を多数輩出していることで知られています。
「ニュー・イングランド(New England)へは、私はぜひとも行ってみなければならなかった。私のキリスト教はもとニュー・イングランドから来たものであり、従ってニュー・イングランドはそのキリスト教が引き起こしたわが内心の苦悶に対して責任を持つからである。」このように内村は言います。内村がこの地へ行ったのは、アマースト大学の総長ジュリアス・シーリー(Dr. Julius H. Seelye) に会うためでした。彼はすでに日本にいたときから、この総長の著書を読んで、その敬虔さと学識を知っていたのです。内村は、古びてよごれた服をまとった惨めな姿で(内村談)、わずか7ドルをポケットに入れて大学町に行くのです。そして総長邸の玄関に立つのです。新島が総長にあらかじめ自分の名前を紹介してくれていました。
扉が開いて大きな体躯、獅子を思わせるような双の眼に光る涙、並外れて強く暖かい握手、もの静かな歓迎と同情の言葉で内村を迎えてくれるのです。これは彼に会う前に密かにわが心に描いていたものではないというのです。内村は、彼が心から喜んで差し出す援助の手にわが身を任せることを約して彼のもとを辞するのです。そして、学校の寄宿舎の一室を無料で貸し与えられるのです。親切な総長は小使いに言いつけて、必要品を整えさせてくれました。「私は寄宿舎の一番高い階の一室に落ち着き、全能の神が彼ご自身が示してくださるまでは断じてこの場所から動くまいと決心した。」
アマースト大学では歴史学の教授、ドイツ語の教授らから様々な知見を得たことを書いています。特に聖書註解学の教授との出会いは印象に残ります。彼は内村のために旧約聖書歴史学と有神論との特別講義をします。彼の講義の唯一の学生だった内村は連続三学期、規則ただしく討論研究をします。その教授は、内村の中にある儒教その他の善い異郷精神を引き出し、それを聖書の基準に照らして比較考察したといわれます。
しかし、哲学では内村は全然失敗であったと言います。東洋流の演繹的な自分の心は、知覚、概念、その他に関する厳粛な帰納的方法と全く相容れなかったというのです。我々東洋人は真理を確立するにあたり、倫理よりは視覚に頼ることの方が多い。自分がニュー・イングランドの大学で教えられたところによれば、哲学は、この東洋人の懐疑と霊的幻想とを解決するにはあまり役立たないと主張します。ユニテリアンその他の理知的な宣教師が、東洋人は理知的な民だから理知的にキリスト教に改宗させねばならぬと考えたのは最大の誤りだったとも考えるのです。
「東洋人は詩人であって科学者ではない。三段論法の迷路は、われらが真理の神にいたるための道ではない。ユダヤ人は「一連の啓示」によって真の神に関する知識に達したという。そしてそれはアジア人すべてを通じて言えることだ。」と内村は宣言するのです。
アマースト大学総長ほど内村を感化し変化させた者はいなかったようです。礼拝堂で、彼が立ち上がり賛美歌を指示し、聖書を読み祈るだけで十分でした。「私はこの尊敬すべき人を一目見たさに、一度として礼拝をさぼらなかった。」総長はあるとき、宣教師大会、いわゆる外国伝道集会に招いたのです。内村は、そこはキリスト教国のクリスチャンらしさを示すもので、こうした大会は異教徒の国にはないと観察します。内村は皮肉をこめて次のように言います。
「万余の知識人の男女が三つも四つもの大きな会場に満ちあふれて、どうすれば他国民に福音のさいわいを味わさせ得るかについて聞こうとしている光景は、それだけですでに深い感動を与えるものであった。これらの人々にとり異邦人伝道事業は、ショーにする値打ちがあることだけは確かだった。そして、それは疑いもなく、あらゆる宗教的ショーの中でももっとも高貴な最も神聖なショーであった。」
外国伝道の根拠は、異教徒の暗黒をクリスチャンの光明と比較対照して描き出すことにあると考えられていました。外国伝道のための雑誌、評論、新聞などはいずれも、異教徒の不道徳や堕落や愚かな迷信などの記事を満載していました。「もし君たちがそれほど立派な人々なら、そんなところへ宣教師を送る必要はない」という言葉に対して、内村は「いいえ、みなさん、こうした高潔な人たちこそ、他の国の人々以上にキリスト教を憧れ求めているのです」と答えたというのです。内村は言います。「異邦人に対するあれみ以上の高い動機に基づかぬキリスト教外国伝道は、援助を送る側も送られる側も多く傷つかぬうちに、全部引き上げる方がよいと信じる。」
内村が全生涯をかけて伝道に捧げながら、外国宣教師をはじめ、そこからの補助を一文も受けず、独立の清い節度を貫く姿勢が表れています。かくいっても幾多の内外の友人の愛の援助、献金があったことを告白しています。